都築弥厚と岡本兵松 ― 明治用水を成し遂げた二人の郷土の偉人

都築弥厚と岡本兵松 ― 明治用水を成し遂げた二人の郷土の偉人

水に乏しい碧海台地(現在の安城市を中心とする一帯)に、矢作川の水を引く壮大な用水計画を最初に構想した豪農・都築弥厚(つづき やこう)。その死で一度は潰えた計画を、40年近い歳月を経て受け継ぎ、ついに「明治用水」として完成させたのが岡本兵松(おかもと ひょうまつ)である。世代を超えて一つの夢をつないだ二人の生涯を、年代を追ってたどる。

最終更新:2026年8月

安城市はかつて「日本デンマーク」と称されるほどの農業王国として発展したが、その礎となったのが明治用水である。矢作川から水を引き、水不足に苦しんできた碧海台地を潤したこの大用水は、一人の豪農の壮大な構想に始まり、志半ばで倒れた後、別の人物の粘り強い執念によって半世紀近くの歳月をかけて実を結んだ。

第一章 都築弥厚 ― 明治用水の祖

明和2年(1765年)~天保4年(1833年)、享年69

生没年
明和2年(1765年)~天保4年(1833年)、享年69
出身地
三河国碧海郡和泉村(現・愛知県安城市和泉町)
身分
豪農・地主。酒造業を営み、代官職も務めた
功績
矢作川を水源とする大用水(明治用水の原構想)を立案し、測量・幕府への出願を行った

生い立ち ― 和泉村の豪農の家に

明和2年(1765年)|誕生

和泉村の豪農の家に生まれる

三河国碧海郡和泉村(現・安城市和泉町)の豪農・地主の家に生まれる。都築家は代々酒造業を営み、地域の代官職も務める家柄であった。成人後、弥厚自身も家業の地主経営や酒造業、代官としての務めを担いながら、地域の指導的な立場に立つようになる。

壮年期 ― 壮大な用水計画の構想と測量

壮年期

水不足に苦しむ碧海台地を憂う

弥厚が暮らした碧海台地は酸性の粘土質で水はけが悪く、農民は慢性的な水不足に苦しみ、水をめぐる争いも絶えなかった。この現状を憂えた弥厚は、矢作川を水源として延々30kmにも及ぶ水路を引き、約6,000ヘクタール(新田開発4,200町歩、予想収穫5万石)にも及ぶ広大な台地を潤すという、前例のない壮大な新田開発計画を構想する。

文政5年(1822年)

石川喜平の協力を得て測量に着手

高棚村の和算家・石川喜平の協力を得て、水路の測量に着手する。しかし、水害や入会地(共同利用地)の減少を恐れた地元農民の反対は激しく、測量作業への妨害が相次いだ。そのため測量は人目を避けて夜間に、提灯や松明のわずかな明かりを頼りに進められ、綿や蕎麦の種を蒔いて発芽した跡を目印にするなど、命がけの作業であったと伝えられる。

文政9年(1826年)

5年がかりで測量を完了

幾多の困難を乗り越え、着手から5年の歳月を経てついに測量を完了させる。

晩年 ― 幕府への嘆願と、志半ばの死

文政10年(1827年)

計画書を幕府に提出

測量結果をもとに計画を『三河国碧海郡新開一件願書』としてまとめ、幕府勘定奉行に提出。事業の実現に向け、私財を投じながら奔走を続けた。

天保4年(1833年)|69歳

計画の一部許可、そして病没

長年の働きかけが実を結び、計画の一部がついに幕府から許可される。しかし弥厚はその直後の同年9月、69歳で病に倒れた。生涯をかけた事業に投じた私財は底をつき、残された借財は2万5千両にものぼったという。悲願の実現を見ることなく世を去った弥厚の計画は、ここで一旦頓挫することとなる。

私財を惜しまなかった献身の人。豪農としての財産のすべてを注ぎ込みながら、生きている間に事業を完成させることはできなかった。

「明治用水の祖」として。弥厚の死から40年近い歳月を経て、その構想は次章で紹介する岡本兵松らによって受け継がれ、ついに「明治用水」として結実する。


第二章 岡本兵松 ― 遺志を継ぎ、悲願を実らせた実行の人

文政4年(1821年)~明治30年(1897年)、享年76

生没年
文政4年(1821年)~明治30年(1897年)、享年76
出身地
碧海郡大浜村鶴ケ崎(現・愛知県碧南市山神町)
身分
開墾農民。のちに石井新田(現・安城市石井町)に移住
功績
都築弥厚の用水計画を受け継ぎ、伊予田与八郎と協力して「明治用水」を完成させた

生い立ち ― 醸造・回船業の家に

文政4年(1821年)|誕生

大浜村鶴ケ崎に生まれる

碧海郡大浜村鶴ケ崎(現・碧南市山神町)に、醸造業や回船問屋を営む一族の家に生まれる。身長が高く厳格な性格で、真宗大谷派への信仰心が篤い人物であったと伝えられる。

青年期 ― 荒野の開墾と弥厚の遺志との出会い

嘉永6年(1853年)頃|32歳

五ヶ野原の開墾を開始

都築弥厚の子孫から五ヶ野原の原野20町歩を買い入れ、開墾を始める。荒れ地を切り拓く中で、かつて弥厚が抱いた壮大な用水計画の存在を知り、その遺志を継いで実現させることを決意したと伝えられる。

壮年期 ― 度重なる却下と、粘り強い執念

安政5年(1858年)・明治元年(1868年)

用水計画を申請するも不許可

弥厚の計画を引き継ぐ形で、行政に用水路開削の計画を申請する。しかしいずれも許可を得ることはできなかった。

明治4年(1871年)頃|50歳

石井新田へ移住、計画推進に専念

妻とともに石井新田(現・安城市石井町)に移住し、開墾と用水計画の実現に専念する生活に入る。

明治6年(1873年)|52歳

伊予田与八郎との出会い

愛知県に計画を再申請した際、独自に用水計画を進めていた阿弥陀堂村の庄屋・伊予田与八郎との計画合併を求められる。翌明治7年(1874年)、両者の計画が統合され、岡本が農民の説得を、伊予田が出資者との交渉を分担するという協力体制が築かれた。

晩年 ― 悲願の明治用水完成

明治9年(1876年)|55歳

愛知県令によりついに計画認可

愛知県令・安場保和により、統合された用水計画がついに認可される。弥厚の構想から半世紀近くを経て、実現への道が開かれた。

明治12年(1879年)|58歳

本流工事、着工

悲願の用水路本流の工事がついに始まる。

明治13年(1880年)4月18日|59歳

水源地で通水式

水源地にて盛大な通水式が挙行される。中井筋・東井筋も同年中に完成した。

明治14年(1881年)|60歳

「明治用水」と命名、完成

西井筋も完成し、用水は「明治用水」と命名される。灌漑面積は最大10,760ヘクタールにも及ぶ大用水として、碧海台地の姿を一変させた。

明治16年(1883年)10月|62歳

藍綬褒章を受章

長年の功績が認められ、藍綬褒章を受ける。しかし多額の私財を投じ、長年の苦労が重なったことで体調を崩し、経済的に厳しい晩年を送ることになった。

明治30年(1897年)10月6日|76歳

生涯を閉じる

「いくかわに あおたのかぜや むらつづき」の句を残し、76年の生涯を閉じた。

執念と行動力の人。二度の却下にもめげず、半世紀近くにわたって計画の実現を諦めなかった粘り強さが、悲願の達成につながった。

協力を引き出す調整力。伊予田与八郎という同志を得て互いの強みを分担し、一人では成し得なかった大事業をまとめ上げた。

私財を惜しまず地域に尽くした晩年。経済的には厳しい晩年であったが、その功績は「明治用水」として今も安城の大地を潤し続けている。

※ 本記事は農林水産省「明治用水の祖 都築弥厚」、水土の礎「明治という名の壮挙」、安城市公式資料、中日新聞Web等の各種資料をもとに作成しました(調査時点:2026年8月)。年月日や逸話の表現は史料により異同がある場合があります。

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